公共政策の倫理学(旧地方自治の倫理学)

元藤沢市議酒井信孝のブログです。

議事録軽視の本末転倒

 議事録からは読み取れないことがあるから議会史編纂には意味がある、という的外れな主張が多く聞かれた。
 議会制民主主義の根幹は議会における議論や議決であって、その記録が議事録である。議員は市民を代表して議会で発言や議決に臨み、市民は議会の全てを知ることができなければならない。議員は、公式に記録される議事録に、読んだ市民がしっかりと理解できるように発言しなければならない。議員の仕事は議事録に発言を残すこととも換言できる。
 本来、議員が一番心掛けるべきは、議事録を読んだ市民が、議論を正確にわかりやすく理解できるように発言することである。だが、藤沢市議会のように、会議の休憩を恣意的に頻発し、込み入った議論や本音は『休憩』中に行い、都合の悪いことを議事録に残さないように操作しているから、議事録を読んでいてもその背景や本質が読み取れないのである。それこそ、議論の背景を記録しようというのであれば、休憩中の議論も議事録に載せるべきだ。
 議事録は録音や速記を起こした生データである。一方、議会史を編纂するために聞き取ったり、資料集めをした場合、それが虚偽や捏造ではなく本物、真実であるかをどのようにして判断するのか?それは、学術研究レベルの検証が必要である。
 そうした学術レベルの検討・検証もなされず、執筆者任せで記述された議会史など、何の役に立つと言うのか。「議会史にはこう書かれています」と言われたところで、単なる権威主義にしかならない。
 本当に意味のある議会史を作りたいのであれば、そのための記録や資料の保存をしていなくてはならない。何より議事録こそが、議会制民主主義における最も重要な記録であるのだから、そこに全てを反映するように議会活動を行うことが議員の責務である。
 そうした基本ができていない議会がまともな議会史を作れはしないし、形だけの無価値な遺物を創り出すために巨額の税金を浪費するなど、無駄遣い以外の何物でもない。