公共政策の倫理学(旧地方自治の倫理学)

元藤沢市議酒井信孝のブログです。

『藤沢市子どもの未来応援条例』の審査に関する論点

12月10日、議員提案された『藤沢市子どもの未来応援条例』の審査が子ども文教常任委員会でありました。

さまざまな懸念が指摘され、市が実施した「子どもと子育て家庭の生活実態調査」の結果・分析が2月定例会で報告される予定でもあることから、継続審査とすることになり、私も賛成しました。

議案
https://drive.google.com/file/d/1qITC-XuEaGEBhGEr8lPn5Sa8Tb5mcGAu/view?fbclid=IwAR0epQCzqjc-Kh1u7q2Lhd6e_Xqv1B5e4AhYCmm3MWrilYp33c2gYe9UCXc


私の論点は以下のようなものです。

・質疑の中で、条例の名前と中身との乖離を問われた提案議員が、委員会では微に入り細に渡って質問や意見が出ているが「行政に馴染みのない人からは条例を見ても何のことやらといった反応が圧倒的でした。一番目につくのがタイトルです。(当初の条例案のタイトル)『子どもの貧困対策条例』というのはどうかね、と言う声が非常に多かった。・・・中身のことで市民や支援の当事者からは条文のいちいちに何かを言われたことはありません。この種の条例があると藤沢市の施策が前進するからよろしいんじゃないでしょうか、と励ましの言葉はありましたが」と答弁した。まったく市民を馬鹿にした発言で、どうせ中身は見ないのだから聞こえのいいタイトルとした、とまさにポピュリズムを地で行くような考え方だ。包括的に子どもを応援するかのタイトルをつけておきながら、貧困対策に特化し、「包括的な条例は目指していない」との弁もあり、確信犯的に市民を欺いている

 ・条例の中には貧困概念の定義がない。定義がないにもかかわらず貧困を全否定しているために、恣意的な解釈によって、貧困を理由にプライベイトへの公権力の介入を安易に許容してしまう恐れがある。貧しいから不幸とは限らない。(権利条例であれば、権利を侵害するような介入は自ずと規制される。)

 ・第3条3項に子どもの自己決定権を謳っていながら、4項には「自ら他者に助けを求めることが難しいことを十分に認識するとともに」と子どもの主体性を二の次とするような記述もある。

 ・子どもを18歳までと規定し、それぞれの発達段階の違いが全く考慮されていない。それぞれの段階に応じた自己決定権を尊重しなければならない

 ・貧困に起因する人権侵害はあるが、同じ人権侵害が貧困以外に起因している場合はいくらでもある。理由の如何にかかわらずに人権侵害として扱えばよい

・現在でも、世帯収入によって税制の優遇や就学援助など行政の施策がある。支援の対象から漏れている支援を必要とする者の存在が問題であるはずなのに、貧困対策としてしまうと貧困とみなされなければ支援の対象とならない。

・権利を規定すれば権利が侵害されているすべての子どもが支援の対象となる。すべての子どもの未来を応援すると言うのであれば、なぜ『子どもの権利条例』ではなく貧困対策条例なのか?