公共政策の倫理学(旧地方自治の倫理学)

元藤沢市議酒井信孝のブログです。

議会は茶番であってはならない

セレモニーの価値
 国会(議会)は言論の府、と言いますが、ガチンコの議論に何を期待しますか?
 ほとんどの議会では、委員会はガチンコであっても、本会議は準備した原稿を読んでいるだけ。これを目の当たりにしてガッカリした、との声をよく聞きます。
 実際、本会議はまさにセレモニー、儀式の意味合いが強く、文書のやり取りだけでもいいのかもしれませんが、実際に可視化することで正式なものとする、という民主主義を担保するための一手段となっています。
 とりわけ本会議での行政側の発言は、ここに行き着くまでの折衝が結実したものであるわけですが、その過程が分からないから、予定調和で、無意味なように思われるのだと思います。本来、公共を担う行政側は、なぜ最終的な答弁に行き着いたのか、その過程を記録し、公開する、といった説明責任があるはずです。しかし、藤沢市の場合、そうした議員との折衝の記録はほぼ出てこないことでしょう。記録しなければならないという意識がまるでありませんから。

国会と地方議会との明確な違い<責任の所在>

 ところで、勘違いが多いのですが、国会と地方議会には大きな違いがあります。国会は議会で選ばれた総理大臣が任命した大臣が省庁のトップを務める議院内閣制であり、地方議会は有権者に直接選ばれた首長が任命した職員が部局のトップを務め、それを議会がチェックする二元代表制。大臣が国会で行政の意思決定に反する発言をしたとしても、それは政治的裁量なのであって、その責任は内閣が負っており、行政はそれに従わなくてはならなくなります。地方議会の場合、部局のトップに個人的な裁量などはなく、行政組織の意思決定に忠実に従う立場であり、その意思決定の責任は首長が負っています。
 同じ本会議であっても、国会は基本的に議員が行政側のトップとして発言しているのに対し、地方議会では、首長の他は行政内部の公務員がトップとして発言しているのです。発言者の裁量、責任には大きな違いがあります。
 選挙で選ばれた議員や首長には独立した裁量がある分、責任を問われればその身分を追われることもありますし、選挙で落選すればそれまでです。
 議員や首長には裁量があるとは言っても、そうした権限があるからこそ、普通は公式な場で不用意な発言はしません。多くの人は用意周到、原稿を用意しています。


議会に茶番を求める衆愚政治
 本会議と委員会では、発言の重みに違いはないはずですが、委員会は本会議から付託された審議であり、本会議に審議結果が報告された後に最終的な議決がなされる、ということからして、本会議の場での発言が議決に一番近い影響を与えるという意味で重要度は増します。そのため、本会議での発言はより慎重になり、議員の多くも用意した原稿を読んでいるわけです。
 一方、委員会には、とりわけ嘘が罷り通るような不誠実な政治状況であれば、衆人環視の下で、本音に迫る、という取り調べのような機能もあります。失言や準備不足から本音が垣間見えるということもあるでしょう。そうした意味のある失態を追及するのは構いませんが、しばしば、威勢の張り合いや公開処刑を見るような、暴力的なエンターテイメント性をそこに求めていることがあるのではないでしょうか?
 通常、議論が白熱したからといって、その勢いで採決に雪崩れ込み、議論の攻勢が表決に反映される、などということはありません。議論で明らかになったことも踏まえ、冷静に判断して、採決に臨むものです。
 あくまで中身。議論の中身が大事なのであって、中身を吟味した上で、選挙などの機会を通じて有権者としての意志を反映させたいものです。


追記

 何を面白いと思うかではありますが、権威やセレモニー好きには本会議が向いていますし、アドリブ的なやり取りや議員や市役所の本音や態度、議員の資質を直視したいというのであれば委員会の方が断然いいです。

 藤沢市議会の場合、柳田議員のように委員会でしか発言しない議員(この4年間一般質問ゼロ)というのもいて、安直な暴論にはうんざりしたものですが、なぜだかこれに異を唱える議員が少なく、暗躍しているような印象がありました。たいていの市の提出議案は委員会に何回か報告された後に議案化されるので、委員会の方が意思決定過程に近い機能を持っています。

議員の本音が見える議会運営委員会

 とにかく時間があるときは議会を傍聴する。というくらいの市民が増え、常に議会が市民の環視下に置かれているくらいの緊張感があれば、藤沢市政もよくなっていくかと思います。議会は市民の代議場ですから、もっと市民の出入りがあってしかるべきですし、勝手にやっている感があるのが現状です。