公共政策の倫理学(旧地方自治の倫理学)

元藤沢市議酒井信孝のブログです。

独裁を望む悲哀

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憎しみが渦巻いている。
平和のためなら独裁の方がマシだと思ってしまうほどの絶望。
政治的な自由がなくとも、親族との平穏な日常を送ることさえできればいい、といった幸福観は、人類史の大部分において、圧倒多数の支配される側の人々にとっては、受け入れざるを得ない宿命だったに違いない。
世界人権宣言第1条には「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」とある。これが国連で採択されたのは1948年。破滅的な世界戦争を経て行き着いた境地であり、現代の国際社会が依拠する基本原則である。しかし、置かれた国家や社会に拠らず、個人の権利や尊厳は人類共通の普遍的・先天的な原則であり、それを守ることこそが正義だ、とはたして言い切れるのだろうか?
そこには、自由や平等が保障されることが幸福だ、という幸福観が前提となっているが、不自由や不平等、束縛や支配されていることを望む幸福観もある。とりわけ宗教的な意味において。
しかし、例え支配されることを主体的に選択したとしても、一度支配されてしまえば抜け出す自由を行使することは容易でない。
個人の自由や平等を保障しなければならない義務を負っているのは国家権力である。あくまで、個人の生き方は個人の自由だが、国家権力が個人の自由を奪ってはならない、ということである。
このことからすると、社会主義国イスラム国家、独裁国家は、すべて世界人権宣言に違反しているということになる。(立憲君主制も違反だろう。)
だが、世界人権宣言に違反していることを理由に、他国が軍事介入する権利などない。あくまで軍事介入は当事国からの要請に基づくべきだし、戦争は自衛のための緊急避難以外は許されない。
イラク戦争大義は、あくまで自衛のための大量破壊兵器武装解除だったが、大量破壊兵器は出てこず、フセインを逮捕し処刑した罪は国内の大量虐殺に関する人道に対する罪によるものだった。
イラク戦争の正当性は国際司法裁判所などで裁かれるべきだがなされていない。
独裁政権を崩壊させたからには、同国の統治体制が整うまで支援するのは国際社会の責務であるが、武装勢力の掃討、武装解除すらままならない。
それでも、制度上は民主化された。あくまで、これからどのような国家を目指すのか、決めるのはイラク国民である。