コロナ禍に乗じたパブリックのプライベイトへの浸食
公衆衛生上の有事にあって、行政が、本来やるべきパブリックな領域における規制や施策ではなく、個人の努力や行動変容を強いるプライベイトへの介入ばかりをしてくることが、腹立たしさや気持ち悪さの原因であるに違いない。
このコロナ禍の公共政策で不可解なのは、本来やるべきパブリックな領域における対策ではなく、プライベイトな領域に介入して個人に責任を押し付けるようなことばかりに偏っているのはなぜだろうか。
基本的人権が保障されている社会であるならば、公共政策は、多様な価値観が共存できるように配慮しなければならない。(むしろ多様な価値観が共存できるようにすることが使命である。)
特定の価値観を採用するのであれば、民主主義の手続きによる立法措置を経るべきである。
新しい生活様式だとか、新しい旅行様式だとかは、プライベイトな領域における個人の自由の範疇であるのに、行政が思い付きのような内容を勝手に決め、国民に一方的に押し付けている。
お願いベースであっても、公権力が発するからには公共性が担保されていなければならない。勝手に偏った価値観を流布する資格はない。
長距離移動を規制するのはあり得ても、旅行の仕方だとか、エチケットとか、内容とか、そういった個人の好みや価値観はプライベイトな領域の問題である。旅行などというものは全くに個人の自由な営みなのであって、他人に強いられるものではない。規制するのであれば、内容に条件を付けるのではなく、旅行自体を規制するべきだ。
国民が飼い馴らされた犬になることを求めるような公共政策は間違っている。