公共政策の倫理学(旧地方自治の倫理学)

元藤沢市議酒井信孝のブログです。

全会一致で議会史中止陳情を否決

 議会運営委員会の議会史予算化中止を求める陳情の審査は、全会一致で否決されました。
 藤沢市議会には市民の声を代弁してこれに異を唱える会派は皆無であることがはっきりしました。(会派に埋もれた議員はいるかもしれないが、今のところ出る杭は見当たらない。)

 大方の議員が、概算事業費1億7千万円の縮減は必要との共通認識はあるようだが、本気度がまるでない。このドンブリ勘定が打ち出されてから3か月が経過したが、ドンブリ勘定のまま、初年度予算を市の来年度予算に盛り込もうとしている。
 総事業費の最大は出されているが、最小はない。縮減目標もない。
 歴史を記録することが必要だと言うが、ならばなぜ常日頃からそうした視点で取り組んでいないのか?むしろ常に議会史編纂室を設け、議会報にそうしたコーナーを作るなど、コツコツと記録するといった努力もしていないのに、取ってつけたように必要性を唱えられたところで全く説得力がない。
 なぜ予算化を急ぐのか?
 改元に合わせ、平成を総括したい、来年の市政80周年を記念して、とのことだが、改元予定は2017年6月には決まっていた。事業期間は4年間で市政80周年には間に合わない。
 本心から必要な事業であると言うのなら、念入りに予算を練り、市民の理解を得ながら進めるべきところ、市民周知を全くしないうちに、不用意などんぶり勘定で予算計上し既成事実化してしまおうなどというのは、まったくの市民無視であり、市民を馬鹿にしている。(市の予算がこんなどんぶり勘定で肥大した予算であれば批判が殺到するはずだが、議会が自らを棚に上げてどんぶり勘定を市の予算に議会費として盛り込ませるようなことをすれば、市に対する示しがつかなくなる。)
 数多ある出来事の中で何に注目し、何を取り上げるというのか?
 何に重きを置くかは人によって千差万別。
 限られた人々が恣意的に論点、出来事を抜粋し、その主観で記述され偏向した歴史物語など、何の価値があるというのか?
 本当に価値のある出来事は研究者が主体的に取り上げ研究する。
 見向きもされないけれど記録に残したいことがあるのであれば個別に検証し報告書を作成したり、当事者が個人で執筆すればいい。
 そもそも、公共性・公益性のある、客観性のある議会史など作りようがなく、関係者に都合のいい歴史が作られる。多くの市民にとっては有害無益。
(例えば、私は、姉妹都市親善交流会の席上、藤沢側の女性市議3人がブルゾンちえみの真似をし、男性議員二人が上半身裸になって踊った暴挙を議会で取り上げたことがあるが、こうした市民の代表者としてあるまじき行為を二度と繰り返してはならない、といった大義をもって議会史の一節に取り上げられることはまずないだろう。当時も、私が問題視したこと自体が問題だとの意見が大勢をしめ、発言訂正や謝罪まで求められたくらいだから、歴史の闇に葬り去るに違いない。興味ある方は以下を参照)