公共政策の倫理学(旧地方自治の倫理学)

元藤沢市議酒井信孝のブログです。

市民社会の荒廃

 現代の日本社会においては、国立市のように投票箱の鍵の封印を怠るような、やるべきことを怠って、不正が入り込んでいてもおかしくない杜撰な選挙管理をしていない限り、候補者の選挙運動における不正はありえても、選挙管理上の不正はやりようがない(やったとしても発覚する)。
 そうした選挙の信頼すら得られていない国も少なくはない。
 日本には、道具としての選挙は備わっている。道具がなければ始まらない。しかし、せっかくある道具を使いこなせているのかが問題である。
 いくら選挙の管理運営が正当になされていても、有権者が候補者の中から投票先を選ぶための情報が十分に得られなければ、単なる人気投票でしかない。
 選挙が民主主義のために機能するためには、情報が十分に得られることが不可欠である。
 情報の得やすさは、アクセスのしやすさに左右される。例え公開されていても、存在を知らなかったり、アクセスできなければ、ないに等しい。
 情報を得られたからといって、どう受け取るか、受け取らないか、は有権者それぞれの勝手だが、情報を得やすいように体制整備に努めるのが、市政や国政に携わる側の行政や議会の責務である。これがいわゆる憲法尊重擁護義務である。
 しかし、国立市のように、行政や議会がそうした良識を持ち合わせていない場合は深刻である。まともに機能していない選挙で当選している現職議員ら既得権者にとっては現状維持が望ましい。だから見て見ぬフリ。
 つくづく情けない。行政や議会に、既得権を失おうとも公益を最優先する、という公共に携わるものの使命感がなさすぎる。むしろ見えないところで公共の私物化が罷り通っている。
 一番割を食っているのは地域住民であるが、損していることに気が付きもしない。飼いならされた羊。知らぬが仏。寝た子を起こすな状態。市民としての尊厳が踏み躙られている。
 恐怖政治が敷かれているわけでもないし、基本的人権が保障されているのに、専制国家と似た社会になってしまっている。