公共政策の倫理学(旧地方自治の倫理学)

元藤沢市議酒井信孝のブログです。

国立市議会の陳情軽視

国立市議会の事務局職員から、陳情者の発言は法的に認められたものではなく、発言を許してさせてあげてるだけだから、発言できるだけ恵まれているんですよ、と言われた陳情者がいるらしい。
日本国憲法第16条には請願権の規定があり、国立市議会の会議規則には「第87条 議長は、陳情書またはこれに類するもので、その内容が請願に適合するものは、請願書の例により処理するものとする。」とある。その審査の仕方は各議会の自治だが、請願権にもとづき陳情者の趣旨発言を認めているのは、恣意的な許可などであってはならない。もし発言を認めない場合はそれなりの理由がないのであれば差別的な扱いとみなされる。
「許してさせてあげてる」「発言は恵まれている」などという理解はまったくおかしい。
 
以下は2018年5月11日のフェイスブック記事です。
 
 5月7日にあった議会運営委員会では陳情・請願の在り方についての意見交換がありました。
 藤沢市議会では審査をしない場合の基準を設けていないため、提出された陳情はすべて審査しています。
 私としては、基準を設けて恣意的に判断するよりも、提出者の口頭陳述のあるなしで審査のするしないを決めてはどうかという意見です。提出者の会議での陳述がないと、内容の確認ができず、真意がわからないまま審査しなければならないという無理があるからです。この観点を持っているのは私だけでした。
 請願権は憲法で保障された国民の権利です。地方議会に対する請願は地方自治法に規定されていますが、陳情に関しては規定がありません。国、地方、どちらにおいても請願には議員の紹介が必要ですが、陳情は議員の紹介がいりません。選挙で議員を選んでいる以上、支持する議員がいないということは往々にしてありえます。すなわち、議会は全市民を網羅できてはおらず、代理人たる議員がいない市民は少なくないのですから、それを補う意味が陳情にはあるのです。
 紹介議員がいない分、陳情はハードルが低い。だったら陳情も紹介議員を付けて、紹介議員がいれば審査することにすればいい。そうなると陳情と請願の違いがなくなる。平塚市のように陳情審査をやめてしまってもいいのではないか、といったトンチンカンなことを言い出す委員もいました。
 それにしても、こうした物事の意味や価値を理解できない者が、その必要不必要を決める立場にある、ということは極めて危険なことです。傍聴者がほぼ皆無で、とりわけ議事録に残らない休憩中に暴論が飛び交い、その議論で大方の方向性が決まっているのです。会議は公開ですから、ぜひ多くの市民の皆様に傍聴いただき、無責任、横暴な議論を許さない、市民による環視をお願い申し上げます。